第25回 マムルーク朝 女性スルタンも登場
○今回の年表
1250年 | エジプト・シリアのアイユーブ朝の滅亡。マムルーク朝が誕生。 |
1258年 | アッバース朝の滅亡。この頃、事実上イル・ハン国が成立 |
1260年 | マムルーク朝、シリアでイル・ハン国軍に大勝。 司令官のバイバルス、スルタン・クトズを殺害しスルタンとなる。 |
1261年 | マムルーク朝、アッバース朝のカリフを象徴として推戴。 |
1273年 | (ドイツ)ルドルフ1世が神聖ローマ帝国皇帝に。ハプスブルク家の成立。 |
1274年 | (中国・日本)元が日本に侵攻するが敗北。84年にも攻め込むがこれも失敗(文永・弘安の役)。 |
1299年 | (トルコ)オスマン朝が成立。後のオスマン・トルコ帝国。 |
1308年 | イル・ハン国がルーム・セルジューク朝を滅ぼす。 |
1328年 | (ロシア)モスクワ大公イヴァン1世、キプチャク・ハン国から独立。 |
1338年 | (日本)足利尊氏が室町幕府を開く。 |
1353年 | イル・ハン国の滅亡。 |
1368年 | 元が滅亡し、朱元障が漢民族王朝「明」を成立させる。 |
○あれ?マムルークって何?
今からお話しするのは、マムルーク朝。ところが、マムルークについてぜんぜん解説しておりませんでしたので、まずはそこから。
マムルークというのは、簡単に言ってしまえば傭兵・軍事用奴隷です。最もなり手が多かったのはトルコ人。ほかにもギリシア人とか、スラヴ人もいます。
アッバース朝が対東ローマ(ビザンツ)用に雇ったのが最初です。また、セルジューク朝では自民族が「頑張ったんだから、もっとおいしいものよこせ!」とうるさいので、対抗策としてマムルーク軍人を特に重用しました。もっとも、マムルークも給料が出ないとすぐに暴れだす。どこの王朝でも、まずマルムークの給料をどうするかが一番も悩みどころでした。
そして、サラディンの作ったアイユーブ朝。ここでもマムルークが使われます。ところが、マムルークのほうが力が強くなりすぎ、1250年、クーデターが起こって滅ぼされてしまいました。マムルーク朝の成立です。
○女性スルタン誕生・・・しかし・・・。
このクーデターを指揮したのが、なんと女性。シャジャル・アッドゥッルというアイユーブ朝スルタン・サーリフの妃です。もともとは奴隷で、トルコ人ともアルメニア人とも言われます。
さて1249年、フランス王国のルイ9世が、ご苦労なことにエジプトに侵攻してきます。サーリフは出撃しましたが、運悪く陣中で死去。そこで、シャジャル・アッドゥッルは、夫の死を隠しマルムーク軍団を率いてルイ9世の軍を撃破し、危機を回避。その間に、サーリフの息子トーランシャーをスルタンに即位させます。
ところが、このトーランシャーは疑い深く、マムルークを解雇したり格下げします。当然、マムルークは不満を持つ。そこで、シャジャル・アッドゥッルと手を組み、トーランシャーを殺害。そして、新たなるスルタンに、シャジャル・アッドゥッルを迎えます。前代未聞の女性スルタンの誕生と、マムルーク朝の誕生です。シャジャル・アッドゥッルは、早速十字軍と10年間の休戦協定を締結します。
しかし、これはイスラム各界から非難殺到。実は滅亡まで後少しの運命であるアッバース朝のカリフからもお怒りが。そこで、シャジャル・アッドゥッルは、在位80日にして退位。御しやすい中堅マムルーク・アイバクをスルタンにし、後に彼と再婚することで実権を握ります。
ところが、やはりスルタンではないというのは痛い。アイバクは、シリアの旧アイユーブ勢力&次第に進行しつつあったモンゴルと戦うためにイラクにあるモスルの領主(イラク戦争でも出ましたね)と同盟することにするのですが、このときにモスル領主の娘との結婚話が持ち上がります。当然、シャジャル・アッドゥッルは面白くない。彼女は、このときもう40歳ぐらいです。当然嫉妬の炎!・・つか、政治的にもやばい。
そこで彼女、アイバクを失脚させようとシリアに内通します。が、これがモスルのスパイにばれてアイバクと破局。ところが彼女はあきらめない。もうやけくそで、「ごめん、私が悪かったわ」などと甘い言葉を使ってアイバクを呼び出すと、5人の宦官に彼を殺害させました。これに、アイバク派のマムルークが激怒。彼女を捕まえ、アイバクの息子11歳の息子アリーをスルタンにしました。
哀れシャジャル・アッドゥッル。アリーの母親でアイバクの前妻の人物に引き渡され、女官奴隷によって高下駄で撲殺されました。1257年5月下旬のこと。42歳前後といわれます。おお怖い、女の戦い。
(写真:カイロ エジプト旅行情報-Osiris Express http://www.osiris-express.com/)
○基礎を作ったのはこの人だ!
さて、マムルーク朝の基礎を作ったのが第5代のバイバルスです。前回で、モンゴル軍をやっつけた人物として紹介しましたね。彼は、スルタン・クトズを殺害し、スルタンの座を獲得します。
そして、モンゴルに滅ぼされたアッバース朝のカリフの後裔を首都カイロに招き、これを保護。こうすることで自分の宗教的権威を高めます。また、モンゴルがやっていたように道路の整備(駅伝制)を行い、要所にラクダ・馬を配置。こうすることで情報の伝達を容易にし、カイロ中心の中央集権体制を確立します。
そして彼は、シリアに残るアイユーブ朝勢力、イル・ハン国、十字軍と戦い、特に十字軍は彼の死後になりますが、1291年に190年ぶりにシリア・パレスティナ地域から追い出します。
○その後のマムルーク朝
その後、14世紀初頭のナーシルの時代に最盛期をむかえますが、お決まりの後継者争いが発生。1382年、その内部抗争に乗じてバルクークが政権をにぎり、ブルジー朝を開きます。が、これもあいつぐ宮廷内の反乱、内乱、外国勢力で苦しみ、1517年、トルコのオスマン帝国のセリム1世によって滅ぼされてしまいました。
ちなみに、オスマン帝国の1州となったエジプトですが、結局はこの後もマムルークは実権を握り続けます。その後、ナポレオンと戦い敗北。ナポレオン後は、オスマン帝国に反乱を起こしますが大敗北を喫し、ついに勢力を失いました。
マムルーク朝の衰退の原因は、先ほど述べた反乱・内乱、外国勢力(ティムール帝国など)の他、ヨーロッパでも猛威を振るうことになるペスト。これに大流行が大きな痛手ででした。当然人口は激減します。さらに、マムルークは結構腐敗していて、しかも農民に対する圧政がひどかった。これでよくまあ、すぐに滅びなかったものです・・・・。
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