第26回 モンゴルを受け継げ!ティムールの大遠征
○今回の年表
1353年 | イル・ハン国の滅亡。 |
1368年 | (中国)元が滅亡し、朱元障が漢民族王朝「明」を成立させる。 |
1370年 | ティムール帝国建国。 |
1392年 | (朝鮮)李成桂が李氏朝鮮を建国。 |
1398年 | ティムール、インドのデリーを占領。 |
1405年 | ティムール死去。 |
1453年 | (イングランド)バラ戦争が終結。 |
1453年 | (トルコ)オスマン=トルコ帝国がビザンツ帝国を滅ぼす。 |
1467年 | (日本)応仁の乱がおこる。 |
1479年 | (スペイン)カスティリャ王国とアラゴン王国が合同し、スペイン王国が誕生。 |
1489年 | (ロシア)モスクワ大公国がキプチャク=ハン国から独立。 |
1492年 | (スペイン・アメリカ)コロンブス、北米に到達。 |
1500年 | シャイバーニー朝ブハラ・ハン国建国。 |
1507年 | ティムール帝国が滅亡。 |
1526年 | バーブルがムガル帝国をインドに建国。 |
○この人もよく征服した
中央アジアを支配していたチャガタイ・ハン国。もうこの言葉を書くのも飽きてきましたが、やっぱり後継者争いで東西に分裂。さらに豪族たちが割拠して争っていました。その中の一人がティムール(1336〜1405年)。1370年、彼はティムール朝(帝国)を建国します。首都はサマルカンド。
以後、彼の征服活動はモンゴル帝国を理想とし、イラン・イラク・アルメニア・グルジアを征服。当然、チャガタイ・ハン国は滅亡し、弱まっていたキプチャク・ハン国もさらに衰退します。
1398年には、今度はインドのデリーに侵入し略奪。彼は、学問に造詣が深く、サマルカンドに占領地から多くの人材・財宝を集め発展させましたが、征服した地は破壊しました。そして1401年には、マルムーク朝からシリアを奪い、翌年にはオスマン帝国のバヤジト1世(後述)と戦い、大いに打ち破りました。ご覧下さい、この広大な帝国!
こうなると、いよいよ旧モンゴル領で征服していないのは中国!
ティムールは出撃します。しかし、彼は現カザフスタンのチムケントで病没。中国征服の夢は失敗に終わりました。
○サマルカンドってこんなところ
レギスタン広場 左からウルグベク・メドレッセ(1420年築)、ティラカリ・メドレッセ(1660年築)、シェルドル・メドレッセ(1636年築)。 |
ウルグベク・メドレッセ 左側の建物。 ウルグベクとは、ティムール帝国の創始者、ティムールの孫。 撮影:ムスタファさん ○ティムール朝以後の中央アジア彼の死後は、第3代シャー・ルフ(位1409〜47年)と第7代アブー・サイード(位1451〜69年)が名君としてよく統治します。が、結局は後継者争いでサマルカンドの政権とヘラートの政権に分裂。 前者は1500年、後者は1507年にシャイバーニー率いるウズベク人勢力に滅ぼされます。ウズベクという名称はキプチャク・ハン国の名君ウズベク・ハンに由来しています。その関係者の集団だから、ウズベクと呼ばれるようになり、シャイバーニーは、キプチャク・ハン国を建国したバトゥの兄弟の子孫、つまりチンギス・ハンの後裔にあたります。ちなみにティムールの子孫バーブルはインドのデリーに逃れ、1526年、この地にムガル帝国を建国。ムガルとは、モンゴルを意味するインド語です。なお、図は17世紀ごろ。 以後、余談。面倒だったら飛ばしてね。 シャイバーニー政権はシャイバーニー朝ブハラ・ハン国と呼ばれます。しかし、シャイバーニー=ハン死後、サファヴィー朝がイランで独立し、さらにサマルカンドを奪われてしまいます。このとき、同じくサファヴィー朝に征服されたホラズムでは、シャイバーニー家の人間を迎えいえれてヒヴァ・ハン国としてさらに独立します(ホラズムはスンナ派で、サファヴィーはシーア派だったから)。 シャイバーニー朝は、この後にサマルカンドを奪い返して、この地とブハラを首都にして発展します。しかし、1599年に王家が途絶えました。そこで、次に即位したのがロシアに滅ぼされたアストラ・ハン国の後裔で亡命していたジャーンと、シャイバーニー王家の娘との間に生まれたバーキー・ムハンマド=ハーンが。これを、アストラハン朝、もしくはジャーン朝といいます。 この後、18世紀にはジャーン朝の王家も絶え、マンギト部族が政権を握ります。ただし、彼らはチンギス・ハンの血を引いていなかったので、ハンではなくアミールを称しました。この王朝の下で、ブハラ・ハン(アミール)国は中央アジアの中心に。しかし、ヒヴァ・ハン国などと抗争を続け、シーア派のイラン国家とも仲が悪く、戦争していたら国力衰退。そんな中、ロシアが攻め込んできてヒヴァ・ハン国共々保護国におかれ、その後ソビエト内に組み込まれてしまいました。 次のページ(第27回 ビザンツ帝国の滅亡とオスマン帝国)へ |