第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 本筋3:トルーマン大統領登場

担当:林梅雪
●トルーマンの大統領就任  1945年4月12日、F・ルーズベルトが死去しました。アメリカの場合、大統領が在職中に死亡すると、副大統領がそのまま大統領に昇格します。当時、副大統領はハリー・S・トルーマンでしたので、彼が大統領に昇格します。ちなみに、F.ルーズベルトが大統領に就任したのは、世界恐慌真っ只中の1933年で、ヒトラーがドイツの首相になった年と同じ年です。

 大統領選挙は普通、就任の前年に行われます。F.ルーズベルトが最初に大統領選挙を戦ったのは1932年、二期目を戦ったのが1936年、アメリカ史上初(そして恐らく最後)の三期目を戦ったのが、ドイツ軍がヨーロッパ全土を掌握しつつあった1940年、そして四期目が1944年で、この四期目に突入したところで死去したのです。

 一方、新たに大統領になったトルーマンは1884年、中部ミズーリ州の農家に生まれました。新聞社や銀行などに勤め、第一次世界大戦に従軍。退役後、判事となり、1934年、ミズーリ州から上院議員に選出されます。そして第二次世界大戦中、上院の軍需生産特別委員会での活動が認められ、1944年副大統領となったのです。

 この時点でルーズベルト政権は、既に12年目に突入。実質的に政府を切り盛りするのは、大統領とその側近達であり、トルーマンは副大統領でありながら会議に呼ばれることもなく、政府中枢に入り込む余地はありませんでした。

●鉄のカーテン  さて、話はF.ルーズヴェルトが大統領だった頃に少し戻ります。
 第二次世界大戦も中盤に差し掛かってくると、チャーチルの国際的な発言力が弱まってきます。連合軍の指導権を握るのは米ソ二大国となり、イギリスは無残にも脇役に成り下がります。なんと1943年のテヘラン会談で、F.ルーズベルトは対ソ接近を図りスターリンに接近。チャーチルを無視する態度に出るのです。

 一方、ヒトラー打倒のために、一時的にスターリンと手を組んだイギリスのチャーチル首相でしたが、ソ連を完全に信じきったわけでなく、ソ連については警戒を怠らぬようアメリカにも警告します。また、チャーチル首相はトルーマン副大統領(当時)にソ連を批判した書簡を送ったことがありました。

 ちなみにチャーチルはその中で、「鉄のカーテン」という言葉を使っています。冷戦の現実を警告する有名な「鉄のカーテン」演説は1946年、チャーチルが訪米した際に行われたものですが、その原型は既に2年前に出来上がっていたことになります。

 と、少し話がずれましたが、ルーズベルト政権はチャーチルの警告を無視し、対ソ融和路線を取り続けます。チャーチルが「鉄のカーテン」書簡をルーズベルトではなく、窓際族同然のトルーマンに送ったのはこのような経緯によるものでしょう。

●厳しい出だしとなったトルーマン  そんなわけで、ルーズベルトが死去し、トルーマンが大統領に昇格した時も、「(トルーマンは)ホワイトハウスの場所を知っているのか」などと影口をいわれる始末。のみならず、あまりにも存在の大きいルーズベルト大統領の後ということもあり、トルーマン新大統領に対する政府関係者達の反応は冷たいものでした。

 そのような状況の中大統領に就任したトルーマン政権下の人物を二人紹介しましょう。

 新国務長官には元判事のジェームズ・バーンズが就任します。彼はルーズベルト政権下で12年間国務長官を務めたコーデル・ハル元国務長官(在職1933〜1944年)の人脈に属し、トルーマン政権下で重きをなしましたが、いわばド素人のトルーマンを馬鹿にしており、トルーマンとの仲はあまり良いとは言えないものでした。

 それから陸軍長官。
 前政権から留任となった、ヘンリー・スティムソンです。この人物はT・ルーズベルト大統領(F・ルーズベルトの舅、在職1901〜1909年)からトルーマンまで、ハーディング大統領(在職1921〜1923年)を除く7人の大統領に仕え、フーバー(在職1929〜1933年)政権下で国務長官、F・ルーズベルト、そしてトルーマン政権下で陸軍長官とマンハッタン計画(原爆開発計画)の責任者を務めた政府内での重鎮の中の重鎮です。

 以上の2名が、トルーマン政権の対日政策で重要なポジションを占めます。

 一方、ルーズベルト政権下で蚊帳の外に置かれたトルーマンは、大統領になるまでヤルタ会談の経緯、原爆開発について何も知らされていませんでした。まさに一からアメリカの政治・外交の現実を学び始めるはめとなった、トルーマンだったのでした。


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