混声合唱のための「どちりなきりしたん」
V
 作曲:千原 英喜
“Doctrina Christam”for Mixed chorus
V
music:Chihara Hideki

(曲解説:U-lineのA)

○どんな曲?

 2002年に作曲家、千原 英喜(1957〜)が「おらしょ――カクレキリシタン3つの歌」の姉妹作として発表した「T」〜「W」の全4楽章とエピローグ「X」からなる混声4部合唱の組曲「どちりなきりしたん」の第3楽章。

 組曲の背景にあるのは皆さん日本史で習ったであろう、1549年にザビエルがやってきてから江戸時代に禁教となるまでのキリスト教の繁栄と悲劇のおよそ100年間。

 タイトルの「どちりなきりしたん」とは、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけ、日本でのキリシタン教育に使われた教理本の題名で、曲の歌詞には、この本を含む複数の当時の教義本、ミサ典礼文、南蛮歌謡がテキストとして使用されています。

 「V」ではタイトルになっている1600年出版の国字版「どちりなきりしたん」の一部とミサ典礼文「Kirie (eleison)」(キリエ(エレイソン)/主よ憐れんでください)と「Gloria」(栄光)の全文が使われています。

 内容は当然キリスト教の教えの正しいことを説いていますが、ミサ曲的な要素もあり、かつ、「どちりなきりしたん」の特徴である問答形によるキリシタン解説も含まれています。演奏時間目安およそ9分と組曲中最も長く(それ故、演奏機会が多くないのが残念!但し、一部短縮も可能)、語られる内容もかなり複雑で難しい曲ですが、様々な内容が凝縮されている分、曲調が様々に変化し飽きることはないと思います。

○混声合唱のための「どちりなきりしたん」より V 

長大かつ様々な雰囲気が楽しめるボリューム感ある一曲。

※You tubeにも動画がありますが埋込み禁止のためニコニコ動画としました。アカウントのない方はYou tubeで探してください。

○曲の聞き所@

 初めは「♪ひとつには…」とSopranoのソロパートにより導入部がはじまり、キリシタンの尊ぶべき5つのものを解説。「♪二つには…」でソロパートはAltoに移り、そして「♪三つには…」Tenor、それに女声が加わり、「♪四つには…」でBassも加わっていよいよ宗教歌的なハーモニーの世界が展開していきます。なお、この曲は時折各パートが上下に分裂する部分もあり、最大8声部となります。

 一通り解説が終了すると、「♪どちりなきりしたん…」と男声パートのタイトルコール。そのあとの「♪こころなり」は日本的なこぶしを効かせています。
 そのすぐに、ミサ曲「Kyrie」がSoprano・TenorとAlto・Bassの掛け合いで歌われます。こぶしを効かせたすぐあとにミサ曲が登場するとは和洋折衷で面白いですね。


 その後は引き続き神秘的な雰囲気の中、キリストの教えの正しさを説き、そこからミサ曲「Gloria」がはじまります。ここは最初でTenor→Soprano→Alto→Bassと「♪Gloria…」がはじまり、ミサ曲というよりは何人もの人が続々と唱えはじめているかのような雰囲気です。「♪hominibus…」からはまとまりはじめ、「♪Laudamusute…」からTenorとBassの追いかけっこがはじまり、そこに女声も加わって重なりながら「♪Domine Deus」に持ち込みます。

 そこから男声(途中から女声も)のヴォカリーズがはじまり、収束すると男声2パートによるハミングを背景に「♪天にまします…」でAltoがソロパートで登場「♪みなを…」で4パートが入り、キリストが尊ばれ、キリスト教の世が来ることをで説きます。その後の「♪天において…」と「♪地においても…」での女声と男声の対比もそれぞれの雰囲気が出ていて面白いところ。

 その後は先ほどと同じ男声(途中から女声も)のヴォカリーズがはじまりますが、途中から神秘現象を連想させる音の上下があり格好いい!

 そして先ほどの「Gloria」の続きが歌われますが、先ほどとは異なり、途中からベル(トライアングルの場合もある)が鳴り響き、丸で教会のよう。ここでも女声と男声の掛け合いで進行しますが「♪Sanctus」で合流し、男声による2度目のタイトルコール(※1オクターブ上がっています)。そして再びこぶしの効いた「♪こころなり」。
 
 そしてここからは問答形による16部音符を多用した非常にスピード感ある進行となります。
 Tenor(+Bass)による「♪さて キリシタンとは何事ぞや」から問→答→疑問→答…とかけ合いで続いていきます。男女、高声・低声、外声・内声で別れてかけ合ったり、一緒になったり、裏でヴォカリーズが鳴り響いたり、言葉自体も次々と質問するようにかぶせていて格好いい場面です。(詳しくは下の訳をご覧下さい。) ざっくりというなら、キリシタン、及びキリストに関する質問と答えですね。

 この内容は一部が繰り返し歌われ、質問を再確認し曲を盛り上げていきます。最後は「♪まことのデウス まことの人にてましますとは…」で違う形が現れ次へと繋いでいきます。

 TenorとAltoの「♪キリシトとは尊き油を…」からはここまでと似ていますが問答ではなく、キリストの誕生の場面が解説されます。キリストの生まれた馬小屋に3人の博士がやってくるシーンです。

 そしていよいよクライマックス。Tenorから重なっていく「♪くだんの尊き油の代わりに…」から加速し、聖霊の恩寵を受けるシーンを一気に描き出し、減速。

 「♪キリシトと…」からはそれを踏まえて、「だからキリストと唱えてあがめるのだよ」と言葉を繰り返しながら解説し、最後はTenor→Alto→Soprano→Bassと力強い「a_」を重ねて締めくくられます。

○曲の聞き所A
 それでは歌詞と訳です。訳は分かりやすいようにしてみました(間違ってたらごめんなさい)。元の歌詞もテキストの出版年代からして掲載は問題ない思うので載せますが…もし著作権法に抵触する場合は歌詞部分は即刻削除しますので。

 なお、斜体が訳、括弧内は出典です。※文脈上、訳には「デウス」と「神」が混じっています。明確な区別はしていません。

(どちりなきりしたん)
ひとつには、天地萬像つくりあらせたもう御主デウス※1
 一つ目に天と地のあらゆるものをつくり存在させなさる御主デウスを尊ぶこと。
二つには、我等が現世後世、与えたもう御主。
 二つ目には、私達の現世も後世もお与えになる御主(デウス)を尊ぶこと。
三つには、パアテレ、ヒイリヨとスピリツサント。
 三つ目はパードレ(神父)と、子なるキリスト、聖霊を尊ぶこと。
四つには、ビルゼンマリアより生まれたまい、まことの人※2にてまします御ところ。
 四つ目は(キリストが)処女マリアからお生まれになった真理を悟った人でいらっしゃる点。
五つには、後生の道※3は、きりしたんの教えに極まるなり。
 五つ目には後の世に生まれ変わることへの道。これがキリシタンの教えであると決まっております。
どちりなきりしたん、これ、きりしたんの教え、心なり。
 この、どちりなきりしたんはキリシタンの教えであり、そのこころであります。

(Kirie)
Kyrie,eleison.
 主よ、憐れんでください。
Christe,eleison.
 キリストよ、憐れんでください。
Kyrie,eleison.
 主よ、憐れんでください。

(どちりなきりしたん)
これ一切の知恵のまなこ、あきらむる※4教えなれば、迷いの闇※5を逃れ、まことの道※6にもとづくべし。
 これら全ての真理を悟る働きの物事を見定める力を、明らかにする教えですので、迷いに満ちた現世を逃れてキリスト教の教えをよりどころとするべきなのです。

(Gloria)
Gloria in excelsis Deo,
 天の高いところのデウスに栄光を、
Et in terra pax
hominibus bonae volontatis.
 地の善意の人に平和を。
Laudamus te,
 (私達はデウスを)讃え、
Benedicimus te,
 拝み、
Glorifiamus te,
 崇め、
Gratias agimus tibi
propter magnam gloriam tuam.
 偉大なる栄光のために感謝します。
Domine Deus,
 デウスである主よ、

(どちりなきりしたん)
天にまします我らが御親、御名を尊まれたまえ、御世来たりたまえ。
 天にいらっしゃる私達の親であるデウスよ、お名前を尊ばれなさってください。そしてデウスの世よ、来てください。
天において、おぼしめすままなるごとく、地においてもあらせたまえ。
 (デウスよ)天においてお思いになるままであるように、地上においても出現なさってください。

(Gloria 続き)
Rex caelestis,
 天の王であり、
Deus Pater omipotens.
 全能の父(神)であるデウスよ。
Domine Fili unigenite Jesu Chiriste.
 主である(デウスの)御ひとり子であるイエス・キリストよ。
Domine Deus,
 デウスである主よ、
Agnus Dei,
 神の子羊よ、
Filius Patris.
 父(デウス)の御子よ、
Qui tollis peccata mundi,
 世の罪を除いてくださる主よ、
miserere nobis.
 私達を憐れんでください。
Qui tollis peccata mundi,
 世の罪を除いてくださる主よ、
suscipe deprecationem nostram.
 私達の願いを聞いてください。
Qui sedes ad dexteram Patris,
 父(デウス)の右に座っておられる主よ。
miserere nobis.
 私達を憐れんでください。
Quoniam tusolus sanctus,
 主だけが汚れなく尊く、
tu solus Dominus.
 王であり、
Tu solus altissimus,
 高貴である。
Jesu Chiriste
 イエス・キリストよ
Cum Sancto Spiritu
 聖霊とともに、
in gloria Dei Patris.
 父であるデウスの栄光とともに。

(どちりなきりしたん ここから「キリシトとは尊き油を〜まで」問答)
さて、きりしたんとは何事ぞや。
 さて、それではキリシタンとは何のことなのでしょうか?
 ――御主ゼズキリシトの教え、言葉と身もちをもて表わす人なり。
  ――それは主であるイエス・キリストの教えを、その言葉と行いをもって示すひとであります。
何ゆえか、あるじゼズキリシトの教えをヒイデス※7に受け、言葉、身もちをもて表わす人とは言うべきぞや。
 どういう訳ですか?どうして主イエス・キリストの教えを信仰し、教えをその言葉と行いを持ってを示す人であると言うべきなのでしょうか?
 ――心よりヒイデス受けずして、叶わぬのみならず、言葉にも身もちにも表わすべき事の覚悟あること、もっぱらなり。
  ――教えを心から信仰せずに願いが叶わないだけでなく、教えを言葉や行いにも示すべきほどの心構えがあるためで、それは徹底的であります。
きりしたんとは何をかたどりたる※8名ぞや。
 ではキリシタンとは何を信仰している人の名前ですか?
 ――キリシトをかたどりたる名なり。
  ――キリストを信仰している人の名前です。
きりしたんのしるしとは何事ぞや。
 キリシタンであることの証とは何のことなのでしょうか?
 ――尊きクルスなり。
  ――尊い十字架であります。
キリシトとはいかなる御主にて。
 キリストとはどのような御主なのでしょうか?
 ――まことのデウス、まことの人にてましますなり。
  ――真理を悟ったデウス、真理を悟った人でいらっしゃる。
まことのデウス、まことの人にてましますとは何事ぞや。
 真理を悟ったデウス、真理を悟った人でいらっしゃるとはどのようなことでしょうか?。
 ――万事に叶いたもうデウスのまことのおひとり子。尊きビルゼンマリヤの御一人子にてましますなり。
  ――全てのことを叶えなさるデウスの本当のたった一人の御子。尊い処女マリアのたった一人の御子でいらっしゃるためであります。

キリシトとは尊き油を塗られたもうというこころなり。
 キリストは尊い油を塗られなさったと言うことであります。
そのかみ、帝王、サセルダウテ、ポロヘイタ、
 その昔、東方の三賢人、帝王とサセルダウテ、ポロヘイタ、
これ三様の人、尊き油を塗られたまいしなり。
 この御三方が、尊い油を塗られなさったのであります。
御主ゼズキリシト人にてまします御ところ、
 御主イエス・キリストは人でいらっしゃる御方ですが、
帝王の上の帝王にてましますによて、
 天子の上の天子でいらっしゃるので、
くだんの尊き油のかわりに、
 例の尊い油の代わりに、
スピリツサントのガラサを充ち満ちて持ちたもうがゆえに、
 聖霊の恩寵を十分に満ちて持っていらっしゃるが故に、、
キリシトと唱え奉るなり。
 私達はキリストと唱え申し上げるのであります。

※注
※1 デウス・・・神(ラテン語)
※2 まことの人・・・真理を悟った人。まことの神も同じように訳しました。
※3 後生・・・死後に生まれ変わること。(仏教)
※4 あきらむる・・・(「明らむ」連体形)明らかにする。
※5 闇・・・迷いの世界であるこの世。現世。(仏教)
※6 まことの道・・・仏の道。仏教。(仏教) 但しここでは「キリスト教」の意。
※7 ヒイデス・・・信仰。(ラテン語)
※8 かたどる・・・「象る」ではなく、「方取る」と書き、そのことばかりに心が向くことを表します。ここでは「信仰する」と訳しました。


○まとめ
 いかがでしたでしょうか?途中の問答形の部分とかは聞いているとどんどん引き込まれる感じで面白いですね。

 所々登場する「デウス」「ゼズキリシト」「クルス」「スピリツサント」などのラテン語やポルトガル語と古文の組み合わせが何ともエキゾチックですし、それに加えて整然としたミサ曲があるかと思えばこぶしの要素まで入っているという・・・。

 千原先生は「V」について、楽譜の解説に「日本語とラテン語ミサを融合した、いわば《ニッポン・ミサ曲=Missa Nipponicana》とでもいうものを作曲することであった。」と書いておられます。組曲の背景を考えると、私としてはこの曲は「T」を受けて、キリストの教えを日本人に説いていき、当時の新しい文化と日本文化が融合し、ひとつの信仰として確立していく様子を表しているのだろうと思います。

 なお、訳の注釈を見れば分かりますが、この解説含めこの組曲のテキストである教理本には仏教語が多用されているんですね。当時の全く新しい教えをわかりやすく解説するための苦心の跡が伺えます。

 さて、日本人に広まりつつあるキリスト教はこれからどうなるのでしょうか・・・その続きは「W」に描かれています。