第32話:蓄積する疲労
「いいから黙ってろよ。大丈夫だから。」
錠前の最も弱そうな溶接部分に、至近距離から狙いを定める。杉田は覚悟を決めた様子で、吊り篭の奥で小さくなり目をつぶっている。跳弾が少し怖いが…。
バキィィ…ン。
硬質で高質な破壊音が響く。金属がその延性の限界を超えて割れる音。どうやら成功らしい。錠前の残骸を取り払って、重い吊り篭の扉を開ける。
「はぁ…。これで助けたのが、綺麗な女の子なら甘い言葉の一つでも掛けるのになぁ…。ほら、開いたぞ。いつまでもそんなところでうずくまってないで、さっさと出て来い。」
半分手塚に引きずり出されるような形で、杉田が出てくる。
「すいません、ずいぶん長い間こんな狭い所に閉じ込められてたから、体中が痛くて…。」
確かに長時間動けないでいると、関節が痛むことがある。僕は逆に動きすぎで体中が痛いんだけどなぁ…。
杉田はうなり声と共に大きく身体を反り、体幹をひねって背骨を鳴らす。ボキボキという音は彼の体内で響くことに収まらず、手塚にまで聞こえてきた。
「先輩、あの…。」
杉田としても、聞きたいことはたくさんあるだろう。だが、手塚は敢えてそれを遮った。
「話は後にしよう。早く、樋口と一之瀬も探さないといけないから。どこか、心当たりがある?」
杉田は黙って、申し訳無さそうに首を振る。まぁ、行ってない場所は地下だけだから、多分そこだろうが…。
二人は特に何も話すこともなく、手塚の来た道を戻っていた。急いでいたから…。確かにそれもある。だが、本当の理由はもっと別の所にあった。
手塚にその余裕がなかったのだ。
目が廻る、視界が歪む、吐き気がする…。我慢できないわけではないが、出来れば口を開きたくなかった。口を開けば、そこからは言葉ではなく、胃の内容物が出てきそうだった。
大丈夫…、大丈夫だ…。少し、疲れただけだ。しばらく休めば…、すぐに良くなる…。
明らかに疲れが原因でないのは自分でもわかっていた。しかし、敢えて手塚は自分に嘘を言い聞かせ、そして杉田に余計な不安を与えないために、鉛のような足を努めて自然を装って動かしていた。
3階。町議会本会議場。やっとここまで来た。ちょうど真ん中あたりに来たとき、正面のドアが開いた。今度こそ皆川だろう。彼なら、少なくとも杉田のことは任せられる…。
だが、その期待はまたも裏切られる。拘束衣にも見える黒のコート、皮膚のない、赤剥けた顔面…、黒衣の巨人!それが今、自分が向かおうとしているドアの前に立ちはだかっている!
「うわぁぁぁぁー!!」
杉田はその姿に驚き、来た道を戻って逃げようと、反対側の自分たちが入ってきたドアに走り寄った。
「ま、待て!杉田…!」
ダメだ、そっち側に逃げたら、どっちにしてもそのうち追い込まれる…!
しかし、杉田を制止しようとする手塚の努力も徒労に終わる。杉田がドアを開けようとする一瞬前に、ひとりでにドアが開いたのだ。そして、その隙間から覗いたのは…「G」!
あれだけの電流を喰らって、皮膚を黒焦げにしながらもヤツは生きていた!
鉄槌を手放したとはいえ、それを自在に操った丸太のような腕は健在である。「G」はドアを引きちぎって、部屋の中に入ってきた。
「ぎ、ぎゃああぁぁぁぁぁー!!」
一瞬の思考停止の末、杉田はさらに大きな叫び声をあげて帰ってきた。確かに、そっちに行くなとは言ったけど…。
「先輩、先輩ぃ…!」
杉田は手塚にしがみ付き、ガタガタと震えている。
…最悪の状況。行くにしても戻るにしても地獄。第一、体がまともに動かず、逃げること自体もままならない。まして、この2体を相手に戦うことなんて、たとえ体が万全な状態でも出来ることじゃない。今は何とか、にらみ合いの状況を維持しているが、この均衡がいつ崩れるかわかったものではないし、いつまで維持しても、状況が好転する見込みはほとんどない。
ならば、一か八か、分の悪い賭けに出るしかないだろう。勝っても得るものはほとんどなく、負ければ全てを失う、割に合わない賭けだが…。
手塚は荒い呼吸で、しかし静かに、はっきりと言う。
「杉田…、よく聞け。…俺が、あの黒いコートの方を、何とか引き付ける。お前は…、その隙に走って逃げろ…!」
「先輩…、でも、そんな…。」
杉田は困惑している。それはそうだ。誰だって、目の前で自分のために何かが犠牲になる姿を見たいものではない。それは、『自分のため』であると同時に『自分のせい』だから。 だが、手塚は静かに穏やかに諭す。
「杉田…、bestな選択もmore
betterな選択もできないときは、worstでない選択をするしかないんだ…。だから、頼む。これは、命令であるとともに、俺の頼みなんだ…。」
杉田を何とか頷かせ、黒衣の巨人に向き直る。痺れて感覚の無い指先を引き金に合わせ、整わない呼吸の代わりに、何とか心を落ち着かせてタイミングを計る。
「よし…、いくぞ、いち、にの…」
さん!
を言う必要はなかった。その前に黒衣の巨人が突進してきたから。強烈な衝撃を覚悟して身構える、だが、それはいつまで待っても来ない。待ち焦がれて、恐る恐る目をあける。黒衣の巨人は我々の方ではなく、「G」の方に突進していた。巨体と巨体がガッチリと組み合う。
…何故?!奴らは両方とも俺の敵。だったら奴らは当然、仲間同士ではないのか?協力して、俺を追い詰めに来たのではないのか?だったら何故…、仲間割れか?
「……ィ…グェ…ロォ…。」
黒衣の巨人のうめくような声で我に帰る。何だ?何が言いたい?
「ニィ…、ゲェ…ロォ。…逃…ゲロォ…!」
今度ははっきり聞こえた!唇の無い、歯が剥き出しになっている口で、はっきりと言った、「逃げろ」と。
「チィッ!杉田、逃げるぞ!」
重い足を引きずり、未だ何が起こったか分かっていない杉田の手を引く。
「先輩…、何で…?」
「知るかよ、そんなこと!でも、とにかく逃げるんだ!」
なおも強く杉田の手を引く。いまだ状況が腑に落ちないらしいが、とりあえず逃げることには同意したらしい。ほとんど体当たりのような形でドアを開け、直後に閉める。そして走る。出来る限り遠くへ、息が切れるまで。後ろから、黒衣の巨人と「G」、どちらのものともつかない咆哮が聞こえてきた。
一体どのくらい走っただろう。階段を下りた記憶はある。咆哮も、もう聞こえなくなった。さっきまであんなに重かった足が動く。多少もつれるのは仕方ないが、走ることは出来る。やはり死ぬ気になれば、身体の苦痛など案外抑えられるものだ。そう思い、わずかに気を抜いた瞬間、反動が一気に来た。
全身の血液が凍り、同時に逆流する感覚。
自分の身体が分裂し、四肢がバラバラになり、肉体から魂が抜け出る感覚。一瞬の浮遊感、否、床が消え去ったかのような落下感。そして、
「オゴォ…!オグェェェェ…!」
吐いた。
小腸は大蛇の如くのた打ち回り、体中の臓腑を喰らい尽くす。胃袋を素手で握り潰され、挙句に裏返しにされれば、こんな感覚になりそうな気がする。粘質な胃液を全て出し切って、今度は胃袋自体を吐き出すかとも思ったが、さすがにそこまでは無かった。
「先輩…。」
吐瀉物を見て杉田が声を上げる。
「だ、大丈夫…、大丈夫だ、から…。」
口元も拭わず、手塚が言う。彼の「大丈夫」はいつも他人よりも自分に向けられる。
「先輩、でも…。」
そう言われて、自分の吐瀉物を見直し、愕然とした。単に胃液が出てきただけならまだ良かった。だが、自分が吐き出したその液体は、赤く染まっていた。
「大丈夫だって言ってるだろ!」
震えてまともに力が入らない膝を、強引に伸ばして立ち上がる。しかし、視覚で感じる水平と三半規管で感じる水平に明らかな差異がある。壁に寄りかかっていないと立っていることすら出来ない。手塚は少し諦めたように苦笑し、
「大丈夫、なんだけどさ…。ちょっと、肩、貸してくれないかな…。」
ちょっとだけ弱味を見せた。杉田に脇を抱えられて、何とか歩き出した。