第43話:夜は明けて…
白い闇。優しく暖かい底無しの沼。出来ることなら、永遠に沈み続けたかった。手塚が存在するそこは、少なくとも地獄では無さそうだった…。だが、覚醒した意識は彼が深遠に向かうことを許さなかった。目覚めてしまっては、起きなくてはなるまい。まるで気だるい日曜の朝のように…。
重いまぶたを静かに開ける。差し込む光は決して強いものではなかったが、それでも今の彼には刺激が強すぎた。
「手塚さん…。」
傍らには樋口が座っていた。ここは戸山中央病院という場所で、手塚が搬送され、入院している病院である。
「ここは…、一体…。」
体を起こそうとするとあちこちに痛みが走った。思わず呻き声を上げる。
「まだ無理ですよ、手塚さん。命を取り留めたとは言え、まだとても動ける体じゃないんです。」
改めて自分の体を見てみる。ベッドに横たえられたその体には、包帯やギプスが拘束具のようにまとわりついていた。
そして、それらが隠している傷と、その傷が与える痛みが、彼に戦慄の夜を思い出させた…。
「そうだ…。俺はあの後、気を失って…。」
そこから後の記憶は無い。あれからどれくらい時間が経ったのか、町はどうなったのか、そして、みんなは無事なのか…。
「落ち着いてください、手塚さん。あの後のことはゆっくり、順を追って話しますから…。」
樋口の話では、今日は8月25日。つまり自分は、10日近くも意識を失っていたことになる…。
「この病院の医者の話では、『覚醒剤の影響もあるけれども、むしろ肉体的、さらに精神的疲労が大きかった』そうです…。」
10日間…。世界が変わるには、十分な時間だ…。
僕が気を失ってすぐ、岡崎からトランシーバーに連絡があったらしい。『脱出用のヘリを手配した』と。何故彼がそんなものを用意できたのか、詳しい経緯は樋口も知らなかったし、岡崎も話さなかったらしいが、彼にもいろいろあったらしい。そしてそのヘリコプターがたどり着いたのがここ、と言うわけだ。皆、僕ほどでは無いにしろ、怪我をしていたり、感染の危険が疑われたり、ということでしばらくは入院していたらしい。
ちなみに僕の場合、出血が酷く、失血死の危険もあったため、到着してすぐに緊急手術が行われたそうだ。骨折打撲箇所は計26箇所、擦過傷や裂傷に至っては数えることも出来なかったらしいが、縫合だけで61針。少なくとも1ヶ月間の入院が必要と診断された。それでも重要な腱や血管はほとんどが無事で、リハビリ次第では後遺症も出ないだろうと言うことだ。
我々が脱出して数時間後、町には自衛隊の部隊や医師団が派遣され、生き残ったゾンビやハンター・Iなどの掃討や生存者の救出が行われたらしい。だが、それは表向き、一般に報道された話(それも原因不明の『伝染病』という説明しかなかったらしいが)。実際は彼らが派遣されたとき、既に大方の処理は済んでいたらしい。おそらく、飯田橋教授がいろいろ動いてくれたのだろうが、それにしても行動が早すぎないか?それに、あの時は切羽詰まっていて、町の詳しい状況まで説明できなかったし、治療薬さえあれば何とかなると思って、残ったゾンビのことなど考えてもいなかった。しかし、彼に医療関係者は動かせても、ゾンビなどと戦える部隊などは動かせるだろうか…?
とにかく、町の被害は最小限に抑えられた。
死者、行方不明者併せて1200人前後と言うが、それでもあの時点から考えれば、最小限といえるらしい。そして現在、町は急速に復興に向かっている。
「復興の中心的指揮は、手塚さん、あなたの親父さんがとってるらしいですよ…。」
どうやら、事件の中心に最後まで残った者として、発言権を得たらしい。全く、我が父親とは言え小賢しい男だ…。そして、不思議なことにあれだけの大事件でありながら、マスコミの反応は消極的で、発覚の後2,3日間、さらりとニュースになっただけで真実に迫る報道はほとんどされていないようだ。復興が急ピッチで行われているのにも、事件をいち早く忘却の彼方に消し去りたい、という思惑が見える。誰の思惑かは…、心当たりがありすぎる…。
事件の後処理が一段落ついた8月19日。犠牲者の合同葬儀が行われた。犠牲者の中には、西園寺や皆川の名も連ねられたらしいが、二人ともはっきりそれと分かる遺体は、ついに見つからなかったらしい(二人に限ったことでは無いが)。そしてその葬儀が終わった後、ここに入院していた連中も、それぞれの生活に戻っていった。わずかな口止め料と『洩らせば殺す』という脅迫と共に。
「で、樋口君。何で君だけ残ってるんだ?」
「僕は…、人質なんです…。」
人質…?
その時、病室のドアが2度、ノックされた。