2.盧溝橋

 タクシーの運ちゃん曰く「行ったことが無いから場所がよく解らないよ〜。ちょっと近くの人に訊いてくるわ」
 と、誠実に対応してくれながら到着したのが、上写真の盧溝橋(ろこうきょう)。北京中心部から南西へ車で約30分弱の場所にあり、ここで1937(昭和12)年に起きた日本軍と中国軍との間で発生した発砲事件(盧溝橋事件)を契機に、全面的な日中戦争へと突入していく歴史的な場所です。

 もっとも、そればかりが注目されますが、盧溝橋はそれ以外にも歴史的価値が高い場所。1192(明昌3)年、金の時代に完成した歴史的建造物です(幾度か修築されていますが)。全長は約266m、幅約9.3m、高さ約4.52m、11のアーチ状の橋桁を持ち、上質な大理石を使用。

 長い中国の歴史の中で、北京が中国史で中心的な役割を担うようになるのは、遼、そして金の時代から。つまり、この盧溝橋は首都としての北京の歴史を始まりから現在に至るまで、ずっと見続けており、その美しさを元の時代にマルコ・ポーロが「東方見聞録」の中で絶賛しています。

 また盧溝河(現在は永定河)に架かるこの橋は、かつては南から北京へ入る数少ないルートであり、盧溝橋事件が起きたのも決して偶然ではない、非常に重要な交通の拠点だったのです。写真奥が明末に建設された城郭都市・宛平古城(宛平県城)であり、ここで北京へ入る敵を食い止めていたわけですね。


地図
 南(地図では左)から盧溝橋、宛平県城という配置。宛平県城の中には中国人民抗日戦争記念館が設置されています。

盧溝橋にて
 さて宛平県城側から盧溝橋を渡ります。色々石碑がありますが、さてこれは何でしょうか。

盧溝橋にて(康熙盧溝橋の修復碑)
 というわけで近づいてみたところ、まずこれは清の皇帝である康熙帝が、盧溝橋の修復を記念して建てさせた石碑とのこと。この碑は、(台座下からの)全体で高さ5.78mあり、現存する四座碑の中で最も大きいものです。碑の高さは4.53メm、広さは1.17m、厚さは0.57m。碑にはふたつの龍の模様がある。碑文は、康煕8年11月27日に康煕7年の洪水で橋の東部が浸水し、引き続き修繕を行っている状況が記されています。(現地解説文より、翻訳:孟保世)

盧溝橋にて(盧溝暁月碑)
 こちらは乾隆帝の筆と伝えられる「盧溝暁月」を記した石碑で、「燕京八景」の1つになっています(燕京とは北京の古名)。皇帝がここで月を見たということで、現在でも中秋の名月には多くの市民が月見に訪れるとか。
 また、燕京八景とは金の皇帝であった章宗が選んだ名所のことで、時代ははるかに下って、清の皇帝である乾隆帝が足を運び、このように自ら題字を書いて石碑を残したものだそうです。

盧溝橋
 さて、早速渡ってみましょう。現在でも右手には鉄道橋、左手には高速道路と一般道が走っており、この場所は北京にとって重要な交通ルートです。

盧溝橋の欄干
 盧溝橋の欄干には獅子像が両脇に合計で約500体ほど設置されているのが特徴。そして、この獅子像を1つ1つ見ていくと、すべての表情が異なっていることに気がつきます。

盧溝橋の欄干(獅子像)

盧溝橋の欄干(獅子像)

盧溝橋の欄干(獅子像)

盧溝橋にて
中央部は昔の石畳が残されているようです。

盧溝橋にて(康熙察永定河碑)
 盧溝橋を渡るとまた石碑が。これは康熙帝が、ここ永定河を視察したことを記念したもの。「察」とは、「こまかに調べる。つぶさに見る」ということだそうです。

盧溝橋にて(乾隆重葺盧溝橋碑)
 こちらは乾隆帝が盧溝橋を修復したことを記念した石碑。先ほどのは、康熙帝による修復でしたね。
 この石碑は高さ5.5mあり、下に魚や蟹などの彫刻が施されています。また、石碑には乾隆帝による乾隆50年に盧溝橋を修復したことと、その記録が書かれています。なお石碑には元々、碑亭がありましたが、今は土台が残っているだけです。
(現地解説文より、翻訳:孟保世)

盧溝橋にて
 遠くから見ると、確かに素晴らしい連続した半円アーチが素晴らしいものです。それにしても、こんな美しい場所で日中戦争の引き金がひかれることになったとは・・・。ちなみに、朝早かったこともあったのか、観光客は日本人だらけでした。日本語が飛び交いまくっており、いったい自分はどこに旅行に行ったのか、よく解らない・・・。