(8)ソウル:昌福宮
さて翌日。ムスタファさんとは別行動を取り、徒歩で昌福宮へ。
これはソウル駅、そしてソウル市庁舎から世宗路に沿って、真っ直ぐ北にいくと突き当たる場所にあり。李氏朝鮮(朝鮮王朝)を開いた李成桂が1395年に創建したもので、朝鮮王朝最高の王宮として使用されましたが、1592年の豊臣秀吉による侵攻によって焼失。以後は長らく、東側に位置する離宮の昌徳宮が王宮として使われてきたのは、前にご紹介したとおりです。
そして1868年、高宗の時代に興宣大院君の主導によって再建され、330棟の建造物が建ち並ぶ壮大な王宮として再び復活しました。宮殿内には王と官吏の政務施設、王族たちの生活空間や庭園などが複雑に建てられています。ところが、日本による韓国併合後は李太王(高宗)や李王(純宗)は景徳宮に居住することになり、昌福宮の建物は勤政殿など一部を除いて撤去され、朝鮮総督府が建てられて日本の朝鮮支配の中心となりました。
1990年になって昌福宮の復元工事を開始。議論を呼びましたが、戦後も長らく残っていた旧朝鮮総督府の庁舎を移築保存することもなく解体すると、次々と昌徳宮の建造物が復元されていきます。現在も復元工事は続いており、韓国のシンボルとして威容を取り戻す日も、そう遠くないことでしょう。上写真は興礼門。正門である光化門は、私が訪問したときには、2009年までに日本が動かす前の正しい場所と姿に復元する工事中だったため、まずは興礼門から宮殿内へ入っていきます。
往時の全体像。
次に正面に見えるのが勤政門【宝物821号】。
そして次に正面に見えるのが勤政殿【国宝223号】。国家的行事を行う場所です。
勤政殿側から勤政門方向を見ます。前に広がる庭は、朝廷と呼ばれ、偉い方々が整然と並ぶ場所。往時は壮観だったことでしょう。
勤政殿内部。
思政殿から西へ行くと修政殿。古くは世宗の時代に集賢殿が設置されて訓民正音(ハングル)を造った場所です。なお、この付近は様々な官庁が置かれていました。
その北側、堀に囲まれた高床式が特徴的な建築が慶会楼【国宝224号】。王が主催する宴会を行った場所で、さぞかし景色は良かったことでしょう。ちなみに2階は、中心部分の床面が最も高く、外側に行くほど一段ずつ低くなっており、宴席でも身分の差は歴然と示していたわけですね。
度会楼東側の通路。
今度は度会楼の東側・・・というか、思政殿の北側のエリアへ。上写真は舎元殿。朝鮮王朝初期には仏教行事の際に使われていました。
舎元殿の前面にあるのが欽敬閣。天文機器や太陽時計などの科学機器を保管する場所。
思政殿の直ぐ北側にある康寧殿。王の寝室です。
康寧殿内部の様子。
近くにある誕生殿。
これも近くにある延吉堂。
康寧殿の北側にある交泰殿。これは王妃の寝殿であり、宮廷の中心にあるため中宮殿ともいいます。
交泰殿内部の様子。
こちらも同じく交泰殿内部の様子。
思政殿の東には、王子の執務場所である東宮があります。
東宮の建物のうち、資善堂は主建造物の1つです。
交泰殿から少し東へ歩くと慈慶殿【宝物809号】があります。これは高宗が養母である趙大妃のために宮殿の中で最も華やかに建築させたもの。
それからずっと北側に行くと、ゆったりとした雰囲気が素敵な香遠亭があります。右手奥にある不思議な高層建築は、国立民俗博物館です。
こちらは集玉斎。王が書斎として使用していたもので、左右に協吉堂と八隅亭を渡り廊下を介して従えています。
香遠亭の北側にある乾清宮。高宗夫婦の居住場所であり、民間士大夫の建築様式と宮殿形式が混ざっています。なお1895年、閔妃こと明成皇后が暗殺されたのは、この場所でした。
東十字閣(トンシプチャガク)【ソウル特別市有形文化財第13号】
昌福宮の内外を警戒するために設置されたもので、石段は1395年に昌福宮が造られたときのもの、楼閣部分は1867年に昌福宮の再建と共に造られたものと考えられています。
現在は独立した存在になっていますが、日本が光化門を南東に移築し、城壁を壊したことによるもので、本来は昌福宮の城壁を構成する建物の1つです。
昌福宮の北城壁にある神武門。なお、この北側は韓国大統領府である青瓦台(チョンワデ)があるため、厳しい警備状態で私も警察官から職務質問を受ける羽目に。何を言っているのかサッパリわからず、向こうも諦めて解放してくれましたが・・・。
昌福宮の西城壁にある迎秋門。ちなみに東城壁には建春門があります。