中国史(第3回 漢の時代)
○武帝による積極策
「無理をしない」という消極策をとった漢の方針が転換されたのは、劉徹(武帝 位 前141〜前87年)の時です。いよいよ国内体制も固まり、財政も黒字でお金がどんどん貯まり、民衆の生活も安定してきたことで、いよいよ領土の拡大を図るようになります。まず、北は匈奴に遠征し、西はオルドス・甘粛地域を征服し、後に有名となる敦煌などの諸郡を置きました。また、匈奴攻めは、大将軍の衛青、その娘婿で、大司馬(大将軍に並ぶ地位)の霍去病に担当させ、ある程度の戦果は上げますが、惜しいことに霍去病は24歳で死去。またそれに先立ち前139年頃〜前126年にかけて、張騫を西方の大月氏(ダイゲッシ。大月氏は当て字)に派遣し、「一緒に匈奴を攻めよう」と、申し入れましたが、匈奴をおそれた大月氏に拒絶されます。
しかし、それまで知られていなかった西域の事情が判明しました。武帝もこれだけでも非常に満足したそうです。その後、匈奴を北へ追い払うことに成功。また、南方にも進出し、現在の福建省やさらに北ヴェトナムまで征服します。それだけでなく朝鮮にも攻め込み、前2世紀に衛満という亡命中国人が建国した衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪をはじめとする4郡を置きます。
さらに、今の中国雲南部にあった愼国(てん 正しい漢字がは、りっしんべんの部分が、さんずい)、それから秦の時代末期に、北ヴェトナムに趙佗という人物が独立して建国した南越国を滅ぼしました。
それから、忘れてはいけないのが儒教の官学化です。中国には、色々な思想がありましたので、当初は儒教はその中の1つに過ぎなかったのですが、次第に人々に普及。武帝は儒教が好きでしたから、前136年、董仲舒の献策で五経博士というものを設置。つまり、儒教を官の中に組み込んだわけで、官学になったわけです。
また、人材登用制度の面では、前134年に「郷挙里選」という制度を定めます。字からだいたい想像が付くと思いますが、郡の太守が自分の胆と地方で「この人物は、なかなかの人物です」といわれている者を皇帝に推薦する、という制度です。ちなみに、この時期の中央〜地方の行政組織の関係ですが、郡>県>郷>里 という単位に別れています。日本では異なりますね。
一見、武帝は漢にとって、輝かしい功績を挙げたように思われます。しかし、これらの度重なる遠征で貯蓄は一気に吹っ飛び財政は大赤字になりました。そこで武帝は、均輸・平準という物価統制策をとり(均輸とは、例えば米が豊作の地域の米を不作の地域で転売し利益を得ること。平準とは、物資が豊富なときに買い上げて貯蔵し、物価が上がるとこれを売り利益を得るもの。商売の基本ではある)、塩・鉄・酒といった生活必需品を専売にします。
さらに武帝は晩年に耄碌したのでしょう。江充というおべっか使いを寵愛するようになります。この人物は、ライバルの罪を次々でっち上げ排除しました。そこで、これではいけないと、武帝がいないすきに皇太子(劉拠)が彼を斬ったのですが、怒った武帝は皇太子を自殺させてしまいます。武帝は翌年に数々の証言から皇太子の無実を知り、自殺させたことを大変後悔し、江充の一族を誅殺しましたが、後の祭りでした。
○滅亡する漢
その後の漢は、1人の名君をのぞけば衰亡の一途をたどります。1人の名君とは、民間で育てられていた劉詢(宣帝 位 前74〜前49年)です。この人物は、劉拠の孫であり、前述のいきさつにより、民間に追放されたまま放っておかれました。そんな中、当時漢の実権を握っていた霍光(武帝の后の一族で、霍去病の異母弟 武帝のお気に入り)が、劉詢を自分の操りやすい人物として目を付けます。劉詢は18歳の時に、皇帝に迎えられることになりました。
民間で育った劉詢こと宣帝には、自分を補佐するスタッフがいません。そのため、嫌でも霍光に政治を任せるしかなかったのですが、彼はしたたかでした。霍光が死ぬと、彼が持っていた大権を、彼の一族に分割して授けます。そして、少しずつ権力を削り、謀反の容疑で霍一族を一気に殲滅しました。
そして、宣帝は43歳で死ぬまで、民間で得たノウハウ、そしてその頃に行った、旅行で得た知識を生かした政治を行います。まず、塩の値段を下げます。さすがに専売はやめることは出来ませんでしたが、それでも民間にいた宣帝は、塩の値段が生活に与える影響を知っていました。また、各地では下っ端の役人が一般に人々を拷問にかけることがあったのですが、これを徹底的に調査させました。また、彼は治安の悪化を防ぐべく、あえて法律を厳罰にし、そのかわり公平清廉な役人をなるべく採用するようにしました。
さらに、これは運が良かったのですが、匈奴で後継者争いが起き、結局漢に降伏しました。これで、北方の守りを軽くすることができ、歳出削減になりました。そして、大きな戦争は、どうしても必要なときは徹底してやり、なるべく人々を戦争にかり出さないよう減らしました。
しかし彼の息子の元帝(位 前49〜前33年)は、儒教に過度に傾倒し、商売は聖人の行いではないと考え、塩の専売などをすべて止め(国家財政に大きな影響がでて、9年後に復活)、また日夜「貨幣経済をやめて、古代の物々交換に戻そうではないか!」とばかげた議論を行うなど、現実の政治はないがしろにされました。
そして、元帝が死ぬと、その皇后の一族の王莽が台頭を始め、「私こそ立派な人物だ!」と、うまく宣伝し、紀元後8年、漢を乗っ取り「新」という国を建国するのです。民衆にしてみれば、名君なら誰でもよいわけで、ついつい王莽の言葉を信じてしまったといえます。
そんなわけで宣帝は、折角漢を立て直したのに、馬鹿息子のために国を崩壊させてしまいます。 じゃあ、どうして馬鹿息子を皇帝にしたのかというと、 つまり、他にも息子はいただろうに、そいつを皇帝にしたのか。
それは、馬鹿息子の母親、つまり宣帝の妻は霍光に殺されちゃっているんです(霍光の息のかかる者を皇后にするため)。 しかも、この奥さん、彼が皇帝になる前からのつき合いで、文字通り苦楽を共にしていました。それが、影響して馬鹿息子でも亡き妻のために皇帝にしたらしい。
が、これが漢滅亡の原因の1つに。
国家に私情を挟んではいけないと言われますが、この例を見る限りではそうなりますね。
○「新」〜15年で滅亡した王朝
しかし、王莽もロクな人物ではありませんでした。彼は、すべてを古代の「周」に戻そうとしたのです。地名を昔のものに変えたり、官僚制度を昔と同じものにしたりなど、どうでもよいことばかりし、人々の生活を大混乱に陥れました。このため、農民による赤眉の乱や、地方豪族による反乱が相次ぎます。この中で王莽は殺され、反乱軍同士で争った結果、最終的に漢の皇室の1人である劉秀が皇帝に即位(光武帝 位25〜57年)し、漢が復活しました。これを便宜上、後漢(25〜220年)と呼びます。ちなみに劉秀は、漢の皇室に連なる人でしたが、しかしかなり遠い縁戚になります。 本人自身、元々は高い位につければいいなあと望む普通の人物でした。しかし人望を集め、皇帝になったのでした。
なお、前2年、一説によると後67年には、儒教と並んで中国に大きな影響を与えることになる仏教が伝来しています。
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