○王政復古と名誉革命
リチャード・クロムウェルが追いつめられているらしい。これはチャンス!
ということで、当時フランスに亡命していた
チャールズ2世が帰国し即位します
(位1660〜85年)。何でイギリスの宿敵フランスに亡命していたかというと、国王ルイ14世が従兄弟だったからです。
このように王家って、ある意味で国境なんて関係なく、くっついていて、親戚同士で手を組んだり、戦ったりしているんですね。標準語はフランス語だったり・・・(笑)。
さて、帰国するとチャールズ2世は、王政復古を宣言し、リチャード・クロムウェルは辞任しました。もっとも、この時復活したのは議会。議会が再び力をつけたのです。ところがチャールズ2世はそれが解らなかったらしい。
再び専制政治を行おうとするもんだから、議会は
審査法(1673年)で官吏と議員を国教徒にかぎると制定します(フランスに染まったチャールズが、カトリックを優遇したため)。さらに、そして
人身保護法(1679年)で国民の不当逮捕を防ぐようにしました。
旧王立天文台
1675年にイングランド国王のチャールズ2世が造らせた天文台で、本館はクリストファー・レンの設計。観測機関としての王立天文台は1990年にケンブリッジに移転し、現在はその役割を終えていますが、ここが経度0度と定められ、世界中でグリニッジ標準時が使われています。
旧王立天文台
ここが経度0度のライン。初代天文台長ジョン・フラムスチードがここで観測を行い、その観測結果を元に定めたそうです。勝手に自分たちが世界の基準だと定めるんじゃない(笑)、という気も多少しつつも、ここで東経・西経が別れる場所かと思うと、感慨深いもの。
さて、チャールズ2世の後を継いだのが、彼の弟である
ジェームズ2世(1685〜88年)。
ところが、カトリック勢力の復活と反対勢力の大弾圧、専制政治を行ったため、1688年、議会は
オランダ総督ウィレム3世を招きます。このため、ジェームズ2世はアイルランドで抗戦を試みますが敗北し、フランスに亡命しました。
このウィレム3世というのは何者か。
彼は、父がオランダ総督
ウィレム2世、母がイギリス国王チャールズ2世の娘、
メアリ。さらに、妻がイギリス国王ジェームズ2世の娘
メアリという、イギリスとすごく深い血のつながりのある人物でした。というか、メアリが2人も。何だか紛らわしいですね。
もう少しまとめてみましょう。
彼は、チャールズ2世の孫で、その弟ジェームズ2世の娘婿だ!・・・すごい話ですね。
さてさて、2人は夫婦共同で即位し、
ウィリアム3世(位1689〜1702年)、
メアリ2世(位1689〜94年)となります。ウィリアム3世は、その昔フランスからイングランドを征服したノルマンのウィリアム1世と同名と言うことで、ちょっと不思議な巡り合わせとして受け止められたようです。
そして、ウィリアム3世は
権利の章典を承認し、人権保護法も受け継ぐ。また、イングランド銀行の設立、出版の自由の促進など、議会を中心とした政治が稼働します。国王は苦々しく思ったようで対立しますけどね。
で。
この革命は殆ど血を流さなかった、ということでこの革命を
名誉革命と言います。しかしその名称の裏側では、ジェームズ2世支持勢力の強かったスコットランド、アイルランドでは武力弾圧が行われ、多くの血が流れています。
なお、単なる余談ですが、チャールズ2世がフランスに亡命していた頃、弟のジェームズ2世はスペイン軍に入ってイギリスと戦っています。そして、兄が即位するとイギリスに復帰し、海軍長官に任命され、カトリックに改宗。この改宗がなければ、まだ運命も変わったのかもしれないんですけどねえ。
旧王立海軍大学(英国海軍大学)
1669年、チャールズ2世がロンドンに建てさせたキングス・ハウスを前身とし、後に3棟が建てられて、1694年に合計4棟になりました。奥にクイーンズハウスや旧王立天文台も見えますね。
○議会政治のスタート
さて、議会においては国王派の流れをくむ
トーリー党、議会重視の
ホイッグ党の2大政党が稼働します。
ウィリアム3世時代は連立内閣を組んでいましたが、王の晩年には議会で多数を占めた方が政権を握るようになります。そして、ウィリアム3世夫妻には子が無かったため、王位はメアリ女王の妹
アン(位1702〜14年)が継ぎます。
大きな出来事としては、1707年の連合法が出され、それまで同じ君主を冠してきたものの別々の王国であった
スコットランドはイギリス(イングランド)と合邦しました。ここに誕生するのが
グレートブリテン王国。すなわち、後の大英帝国です。あまり日本では注目されない出来事ですが、2014年にはスコットランドの独立を問う住民投票が行われ、大きな注目を集めましたね。
セント・ポール大聖堂(ロンドン)
アン女王の時代に出来た壮麗な建築といえば、こちら。建築家クリストファー・レンによって1710年に再建されたもので、イギリス国教会の大聖堂。1981年にはチャールズ王太子とダイアナ元妃の結婚式が行われたことでも知られています。
そして、アン女王にも子供がいなかったため、その後をドイツのハノーヴァー選帝侯が継ぎます。これが
ジョージ1世(位1714〜27年)。彼は、このページの一番最初に登場したジェームズ1世の曾孫ですが、英語がわかりません。しかも、いきなりイギリスに連れてこられても、内情が何がなんだかさっぱり解らない。そこで、国王は政治に関与しない、という体勢を作り、議会中心の政治が始まるのです。いわゆる「国王は君臨すれども統治せず」。
彼は、即に消極的だった議会与党のトーリー党を信頼せず、ホイッグ党に政権を任せます。
1721年には、ホイッグ党の
ロバート・ウォルポール(1676〜1745年)が首相に就任。ウォルポール内閣が成立し、同時に内閣は議会に責任を負うという
責任内閣制(議院内閣制)という制度が誕生。これは今と同じ体制ですね。もっとも、参政権がジェントリ以上の上流階級だけでしたから、国民主権と言うにはまだ遠い状況です。
しかも、今でも買収工作・賄賂なんて、裏で頻繁に行われていますが、この時代はもっとひどい。当のウォルポール自身が一番買収工作で有名で、「人の命は金で買える」と発言した!と言われています。もちろん、誤解ですけど、それに近いことは言っていたようです。
ちなみにこの人物。元々は田舎の地主。それが、首相まで上り詰めたのですから、まさに立身出世の典型。当たり前ですが、ただ買収工作が上手いだけでは、ここまでにはならない。人の気持ちを機敏に察し、それに適切に対処する。それが、ウォルポールの真骨頂だったようです。
さて、今度はオランダの視点から眺めていきましょう。
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