第7回 1955年〜64年(2):冷戦の激化、一発触発の米ソ

○ベルリンの壁

 続いて1958年には、現在のEUの源流の1つであるヨーロッパ経済共同体(EEC)が発足。これについては、米ソの対立とは多少異なる動きですので、また後ほど詳しく見て行きます。続いて、1960年にはフランスが独立を認めたことによって、アフリカ諸国が独立(アフリカの春)したことが大きな出来事ですが、これも後述します。

さて1961年8月13日、東西ドイツが分割統治していたベルリンで大事件が発生します。それは、東ドイツ(ドイツ民主共和国)政府によって、西側管理地を取り囲む大きな壁が構築され、ベルリンの東ドイツ管理区域と西ドイツ管理区域が完全に分断されてしまったことです。

 そもそもベルリンは、かつてのドイツの首都でしたが、ドイツが東西に分かれた後は、完全に東ドイツの領土内に位置する一方、東西に分断されて西ドイツと東ドイツが管理という、少々不思議な統治形態の都市でした。つまり、西ベルリンはポツンと離れ小島のように、東ドイツの中で浮いた西ドイツ領となっていたのですね。ちなみにベルリンは東ドイツの首都でしたが、西ドイツは首都をボンに定めています。

 そこは、社会主義国エリアの中で異質な資本主義の空間が浮かび上がっていることに。次第に社会主義経済がうまくいかず、経済的に困窮した東ドイツの国民たちが西ベルリンへ亡命するようになり、特に専門的な技術を持った人材が西ベルリンへ向かうことは、東ドイツにとって痛手でした。

 ええい、だったら物理的に西ベルリンに行けなくしてやる!
 ・・・と、ベルリンの壁の形成は、亡命者の増加に業を煮やしたソ連と東ドイツが、ついに西ベルリン全体を壁で囲ってしまおうという力技に出たわけです。当然西側陣営から反発が起こりますが、全面的な対立を招くわけにもいかず、誰もがこの動きを黙ってみているしかありませんでした。それから30年近くもの間、ベルリンは壁で分断され続けることになります。



ブランデンブルク門
東西ドイツ分裂時代にはベルリンの壁際の立ち入り禁止地域の真ん中で孤立しており、
壁が崩壊したときには、多くの市民がこの場所で統一を祝いました。(撮影:ムスタファ)

○キューバ危機


 続いて冷戦、米ソ一発触発状態となったが、1962年2月のキューバ危機です。

 キューバは地図をご覧いただけるとわかるとおり、アメリカと目と鼻の先にある島国で、ここを巡って「ついに核戦争勃発か?」と世界が驚くほど、米ソの緊張関係が極限に達しました。では、その経過を見て行きましょう。

 まずキューバは1952年、軍事クーデターを起こしたフルヘンシオ・バティスタ(1901〜73年)が大統領となり、アメリカ資本と手を結んだ独裁政権を樹立。文字通り、私利私欲にまみれた政治を行います。これに対して、弁護士のフィデル・カストロ(1926年〜 )は1953年に武装蜂起しますが失敗。

 続いて、アルゼンチン出身のチェ・ゲバラ(1927〜67年)と出会い、彼の助力を得て1956年に再び武装蜂起。ゲリラ戦を展開し、1959年1月バティスタ政権を打倒して社会主義政権を樹立します。そして、推定で10億ドルといわれるアメリカ資産を没収しました。
(*ちなみに、チェ・ゲバラは本名エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。チェとは、アルゼンチンなどの言葉で「ねぇ、君」という呼びかけをするときの接頭語で、彼の愛称となっています)。

 これを承服できないアメリカのケネディ政権は、キューバに経済制裁。1961年1月にはアメリカとキューバの外交関係が断絶します。さらに4月17日、アメリカに亡命し、アメリカによる軍事訓練を受けたキューバ人たちが、キューバ南部のビッグス湾に侵攻しますが、90人が戦死し、1200名が捕虜となる大惨敗を喫します。

 益々関係が悪化したアメリカとキューバ。さらにキューバでは、ソ連製の攻撃用中距離ミサイル基地の建設と、ソ連のミサイルが搬入中であることが解りました。当然、アメリカが完全に射程に入っています。もし、ここに核兵器が持ち込まれたら・・・!!

 というわけで、緊張関係は一気に高まり、ケネディ大統領は海上を封鎖すると共に、ソ連に対して、アメリカに対するミサイルの使用は、ソ連に対して前面報復を招くと警告。交渉の結果、フルシチョフはアメリカ合衆国のキューバ不侵攻を条件にミサイル撤去に同意し、合衆国は空中偵察によってそれを確認し、核戦争の危機は去りました。

 この後、アメリカのホワイトハウスとソ連のクレムリンとの間に直通電話(ホットライン)の回線が引かれました。これによって、従来は何か懸案事項が発生すると、大使館を通じた回りくどい交渉が行われていたのを、トップ同士で電話で直ぐ話し合いが出来るようにしたのでした。

○核実験を制限せよ?

 その後は、1963年8月5日にアメリカ合衆国、イギリス、ソ連で大気圏と海中における部分的核実験禁止条約(Partial Test Ban Treaty、略称:PTBT)に調印する、農産物のソ連への輸出を許可するなど、比較的友好ムードに入りました。

 ちなみにこの部分的核実験禁止条約、111カ国が調印しましたが、地下核実験は禁止されていません。フランスや中国が核兵器を持とうとしていたので、これ以上の核兵器の拡散はさせまいと、
「地上での核実験はするんじゃないよ。技術的に難しい地下ならOKだけど♪」
 ・・・と、米英ソが狙ったもの。

 ただし、フランスも中国も反発して、この条約に加盟することなく、核兵器の保有に成功しています。

○ヨーロッパ統合への第一歩

 さて、最後に先ほど省略したヨーロッパ統合への動きについて触れていきましょう。

 復習になりますが、第2次世界大戦の戦災で疲弊したヨーロッパは、経済面での対外競争力を取り戻すために「みんなで一緒にやろうぜ!」という動きが広がります。1948年にフランス、西ドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、イタリア(この6か国をインナーシックスといいます)など16か国がヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を結成。さらに、1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が、先ほどのインナーシックスで結成されます。

 このインナーシックスの6か国は、もっと経済的な協力関係を強めよう!と考えます。

 そこで1958年1月、欧州経済共同体(EEC)が発足。欧州石炭鉄鋼共同体の理念を、ほかの分野にも広げたものですね。また、同時に欧州原子力共同体(EURATOM)も誕生しました。

 一方で1960年、EEC非加盟国のイギリス、オーストリア、ノルウェー、デンマーク、ポルトガル、スウェーデン、スイスも比較的緩いつながりとして欧州自由貿易連合(EFTA)を結成しています。後にフィンランド、アイスランド、リヒテンシュタインも加盟します。こうして、ヨーロッパ西側諸国は2つの経済共同体に再編されるのですが、EECでは更なる経済統合を目指し始め、さらにそれはヨーロッパ全土を巻き込んでEC、そして現在のEUにつながっていきます。

 ところで、私が読んだ本にはインナーシックスという単語が出てきたのですが、ネットで検索すると、そんなに沢山は出てこないですねえ。あまりメジャーな単語ではないのかもしれませんので、とにかく国名を覚えていただけると嬉しいです。

(使用した地図は外務省ホームページより。エジプトについては著者による加工あり)

次のページ(第8回 1955年〜64年(3):アフリカの年‐独立が続くアフリカ諸国)へ
前のページ(第6回 1955年〜64年(1):人類、ついに宇宙へ)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif