第1回
(1096〜99年) |
セルジューク朝、
聖地を占領 |
○十字軍の戦果
セルジューク朝は分裂状態にあったため弱体化していた。
そのため、なんとか聖地を奪還。イスラエル地域にイェルサレム王国とその他3つの諸侯国(トリポリ伯領、アンティオキア侯領、エデッサ伯領)を建国。また、多くの城・城塞を築く。
○悲劇
この十字軍には民衆も参加。しかし、多くは戦死した。
また十字軍により、イェルサレムにいたエジプト人・地元住民の多くが虐殺された。そして、本来の目的を達成できたのは実質的に第1回目だけ。
○文化
イスラム文化・食品がヨーロッパに伝わる 。
○その他
ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、「奪還した土地は私のものだ」と主張。十字軍の諸侯を呆れさせる。だが、結局アレクシオス1世はしたたかに領土を確保している。意外と策士である。
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第2回
(1147〜49年) |
イスラム勢力の反撃
(エデッサ伯領滅亡) |
○十字軍の損害
フランス国王ルイ7世、神聖ローマ帝国皇帝コンラート3世の参加。しかし、内部対立をしてしまう。1168年、ファーティマ朝を倒しアイユーブ朝エジプトを建国した、サラディン(サラーフ・アッディーン 1138〜位1168〜1193年) により大敗北を喫す。中東におけるキリスト教領の多くが失われる。
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第3回
(1189〜92年) |
サラディンの
イェルサレム占領 |
○十字軍の・・・小戦果
1187年に、サラディンがイェルサレムを占領。これに対し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世(位1180〜1223年)、イギリス王リチャード1世(位1189〜99年)が手を組んで大軍団で侵攻。聖地は奪えなかったがサラディンの情けで、ささやかな領地を確保。
○悲劇
フリードリヒ1世は、イェルサレム到着前に病没。
イングランド王リチャード1世らはイスラム教徒を虐殺。
○偉いぞサラディン!
イスラム教徒を虐殺した十字軍に対し、サラディンはキリスト教徒を迫害せず、捕虜も送還。無用な殺戮は一切行われず、ヨーロッパから真の騎士であると絶賛。その後、詩などでも詠われるようになる。
○思わぬ波紋
リチャード1世は、帰国するとが弟のジョンに奪われており、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に身柄を渡される。そこで、多額の身代金を払わされる。ジョンから国を奪い返すと、なんとこの事件の黒幕だったフランス王フィリップ2世に攻撃を開始。が、この戦いの傷が元で死去。 |
第4回
(1202〜04年) |
アイユーブ朝
エジプトを倒せ!? |
○十字軍の戦果?
なんと、ビザンツ帝国のコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建国。当時、ビザンツでは内紛が起こっており、堅固なはずの城門が開かれてしまった!!これは、ヴェネツィア商人達が、商売敵のビザンツ商人を倒してくれと要請したため。ビザンツ側は、小アジアのニケーアやバルカン半島に亡命政権を作り、1261年に首都奪回を果たすが、昔日の威容は無し。
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第5回
(1217〜21年) |
アイユーブ朝エジプトを倒す |
○失敗
エジプトの港ダミエッタ(ドゥミヤート)を占領、が、カイロ攻撃には成功せず、結局ダミエッタも放棄。遠征は失敗。 |
第6回
(1228〜29年)
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アイユーブ朝エジプトからの聖地回復 |
○十字軍の戦果
教皇グレゴリウス7世が、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(位1212〜1250年)に聖地回復を要請。しかし、フリードリヒ2世はイタリア諸都市の反乱と、度々出発を遅延し、破門される。
ところが、1228年になって突如出発。アイユーブ朝エジプトのスルタン(国王)カミールより外交交渉でイェルサレムを譲り受け、形ばかりのイェルサレム王の娘と結婚し、同国王に即位。
が、教皇は激怒し、なんとフリードリヒ2世に対する十字軍を派遣し、皇帝のイタリア所領を奪う。 |
第7回
(1248〜54年) |
エジプトが聖地を奪う |
○十字軍の損害
フランス王ルイ9世(位1226〜1270年)が捕虜になって失敗。
なお、ルイ9世はフランス王としては英明な君主で、市民層と小貴族を中心とする官僚の整備、通貨の発行と管理で経済を安定させ、ソルボンヌ大学(現パリ大学の一部)設立で学問の発展、平和友好政策で周辺国安定などを果たす。 |
第8回
(1270年) |
チェニン攻撃 |
○十字軍の損害
再び聖地奪回に執念を燃やすルイ9世が出陣。しかし、高齢のため病死し失敗。以後、十字軍は編成されずに終了。
ちなみに、チェニンは現在のチュニジアの首都。カルタゴの近くの都市で、当時はハフス朝(1228〜1574)年の都市である。ハフス朝は、ムワッヒド朝の宗教的堕落に反対して独立。が、その統治は安定せず、後にオスマン朝に併合される。
結局、十字軍はイスラム勢力によって、第1回目を除けば、その目的を実質的に果たせないまま終了しました。そして、十字軍が得たものは、聖地ではなく、ヨーロッパよりも優れたイスラムの技術、それから食料などでした。
そうした意味では、十字軍は大きな意義があります。しかし、子供十字軍(宗教熱が高まる中、子供たちが十字軍として自発的に出陣。しかし、途中で奴隷として売り飛ばされる)などの悲劇も起こります。また、十字軍によるイスラム教徒、それからユダヤ教徒に対する虐殺も行われました。十字軍が血に塗られていることを、忘れてはいけないでしょう。
ところで、今回はヨーロッパ史でお届けした内容を流用しましたが、こちらは西アジア史。もう少し追加する必要があります。
例えばこんな話。
キリスト教側は、すっかりイスラムから自分たちの聖地を取り返そう!と、少なくとも最初はまだ宗教的情熱で進撃します。ところがイスラム教徒側は、「フランク人が攻めてきた!」と考えたようです。フランク人・・・というのは昔フランス南部でイスラム教軍が戦ったフランク王国のことですが、この頃にはヨーロッパ人を指すようになっていたようです。
つまり、イスラム教側からは宗教VS宗教などとは考えておらず、あくまでヨーロッパから敵がきたから撃退しよう、その程度だったみたいです。そんなわけで、キリスト教側だって中には宗教熱心でなく、教皇の命令で仕方なくきた軍隊もいる。そこで、第6回十字軍のように、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、アイユーブ朝エジプトのスルタン・カミール(サラディンの甥)と、外交交渉、つまり「何とかしてくださいよ〜」「う〜ん、仕方ないですなぁ」なんてやって
イェルサレムを譲り受ける・・・・なんてことも起こったのです。
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